医学の世界には、「EBM(根拠に基づいた医療)」という言葉があります。
大規模な臨床試験を行い、数千、数万人のデータを集め、「統計的に最も多くの人に効いた薬」を標準治療として推奨する。これは現代医療の根幹を支える素晴らしいシステムであり、多くの命を救ってきました。
しかし、現場に立つ私たち医師は、常に一つの「ジレンマ」と向き合っています。
それは、「平均的な患者」など、どこにもいないという現実です。
先日、米国の専門誌『Inside Precision Medicine』に、非常に興味深い記事が掲載されました。
テーマは「N-of-1(エヌ・オブ・ワン)」。
これは、がん治療における新しいパラダイムシフトを示唆する言葉です。
あなたのがんは、あなただけのもの
通常、臨床試験では「N=1000」といった具合に、多くの被験者数を対象に薬の効果を測ります。しかし「N-of-1」とは、その名の通り「N(対象数)=1」、つまり「目の前の患者様お一人」だけを対象とした治療戦略を指します。
同じ「肺がん」や「大腸がん」という診断名であっても、その実態は患者様一人ひとり驚くほど異なります。遺伝子の変異、細胞の顔つき、免疫の状態……これらは指紋のように固有のものです。
既製服(レディ・メイド)のスーツが万人の体にフィットしないように、統計に基づいた画一的な治療薬が、必ずしもすべての患者様の体質やがんの性質に合致するとは限りません。
記事では、AIや次世代の解析技術(オミクス解析)を駆使し、個々の腫瘍が持つ極めて複雑な「設計図」を読み解くことで、その患者様のためだけにカスタマイズされた治療を行うことが、予後を劇的に改善する可能性について触れています。
究極の個別化医療を目指して
私が専門とする再生医療や免疫療法もまた、本質的にこの「N-of-1」の思想に基づいています。
患者様ご自身の細胞を用い、その方自身の治癒力を引き出すアプローチは、まさに「世界に一つだけの治療」と言えるでしょう。
「標準治療が効かなくなったから、もう手立てがない」
そうではありません。それはあくまで「統計的な正解」の選択肢が尽きただけであり、「あなたに効く治療」が存在しないことを意味するのではないのです。
医療は今、大きな転換期を迎えています。
「病名」に対して薬を処方する時代から、「その人自身」の生命情報に対して最適解を導き出す時代へ。
私たち東京がん難病支援センターも、最先端の科学と、患者様お一人おひとりの「個」を尊重する診療を通じて、この新しい医療の地平を切り拓いていきたいと考えています。
「N-of-1」。
それは孤独な戦いを示す数字ではありません。
医療があなた一人を全力で見つめ、あなただけのために全力を尽くすという、私たちの決意の数字なのです。

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